最終戦DeNA相手に0封で終わり、ドラゴンズは3年連続という結果に終わった。 最後の試合の先発投手は松木平優太。 投球内容としては悪くなかったが立浪政権の最後は飾れなかった。…
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手、左翼手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト1位 |
初出場 | 1988年4月8日 |
最終出場 | 2009年10月24日 |
経歴(括弧内は在籍年) | PL学園高等学校→中日ドラゴンズ (1988 - 2009) |
通算二塁打 | 487 |
シーズン30二塁打以上 | 7度 |
サヨナラ満塁本塁打 | 2度(タイ記録) |
1試合5安打 | 5度(タイ記録) |
プロ入り以降遊撃手→二塁手→左翼手→二塁手→三塁手→左翼手→三塁手とメインの守備位置を変えつつ
現役晩年は代打に役割が変わっても、与えられたその役割を全うした。
1985年 KKコンビに触発されただけでなく 幼稚園からの幼馴染であった橋本清が先にPL進学を決めた事で一層想いを強くしたため (中学時代の監督の伝で決まりかけていた大阪商業大学堺高等学校への進学を断って)PL学園高等学校へ入学。 この時の同期には橋本以外に片岡篤史、野村弘樹(当時は野村弘)、桑田泉らがいる。 2年先輩の桑田真澄と野球部合宿所「研志寮」(現在は廃止)で相部屋となる。 1987年 主将として第59回選抜甲子園大会と第69回夏の甲子園選手権大会の甲子園春夏連覇を達成。 春の甲子園優勝後から立浪の名前がドラフト指名候補に挙がるようになったが 当時の評価は5位・6位と決して高いものではなくPLの中村順司監督も 「身体も大きくないのだから それぐらいの評価なら大学か社会人で野球を続けて それからプロに進んでも遅くない」 と当時点でのプロ入りには否定的であった。 その後、夏の甲子園では3番・遊撃手で21打数9安打、2本塁打、8打点の好成績を残し、優勝の一翼を担った。 これにより、各球団スカウトの評価も「ドラフト2位指名は確実。外れ1位の可能性もある」と大幅に上がった。 そんな中、南海ホークスの杉浦忠監督が早々とドラフト1位指名の方針を固め PL学園の顧問に対し「どうしても立浪君が欲しい。ドラフト1位で指名する」と連絡を入れている。 ちなみに立浪を1位と評価したのは当時南海のみであり、他球団の評価は2位もしくは3位であった。 このことや南海が地元である大阪府・大阪球場を本拠地としていたこともあり この頃から立浪は南海入りを強く望むようになっていた。 実際、南海側も「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど 立浪に対して大きな期待を寄せていた。 しかしその反面、当時のセントラル・リーグとパシフィック・リーグの人気格差や 読売ジャイアンツの監督であった王への憧れから 「できればセ・リーグでプレーしたい」という思いも抱いていたという。 1987年のドラフト会議で南海と中日ドラゴンズが1位で競合し、 南海・杉浦監督と中日・星野仙一監督のくじ引きに。 結局、星野監督が当たりくじを引き当てて中日が交渉権を獲得、中日に入団する。 当時中日は慶應義塾大学のエース鈴木哲を指名する予定であったが 翌年夏のソウルオリンピックを目指して社会人野球に進むことを宣言したため ドラフト会議2日前に急きょ立浪に切り替え、関西地区担当スカウト(当時)の中田宗男がその旨を伝えた。 なお、立浪本人は前述のセ・リーグへの憧れからドラフト会議前夜に寮のベランダに出ていたところ 偶然目の前に現れた流れ星を見て中日入団を願ったという。 中日入団が決まった直後、前述の経緯から杉浦監督に謝辞を書いている。 それに対して、杉浦は「ドラフトで立浪君を引き当てることができなかったのは自分の不徳のせい」 「このような心が熱くなる手紙をもらったのは今回が初めて」などと述べた上で 最後に「どうか、中日ドラゴンズで思い切り、羽ばたいてください」と返している。 その後中日との入団交渉に臨み、スカウトから背番号の候補として (当時1ケタで空き番号であった)3と5を提示され、3を選択した。 立浪は「一桁の背番号で一番格好いいのは3だといつも思っていた」という。
1988年 ヘッドコーチの島野育夫と総合コーチの木俣達彦からも素質を見抜かれ 春季キャンプを一軍でスタートし、2番・遊撃手に抜擢される。 前年のベストナイン遊撃手の宇野勝を二塁手にコンバートさせてまでの抜擢であった。 これに対しても宇野は一切立浪に対し不満や愚痴をぶつけることはなく、むしろやりやすい環境を作ってくれたという。 ただし、春季キャンプが行われたベロビーチのグラウンドでの練習中 バランスを崩して右手を突いたとき右肩を痛めてしまい、シーズン終盤から翌年にかけて後遺症を残した。 開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフルイニング出場(高卒新人としては球団史上唯一)。 開幕戦先発出場を果たしたセ・リーグ高卒新人は、並木輝男(阪神)・王貞治(巨人)以来29年ぶり3人目で 両リーグ合わせても飯田幸夫(近鉄)以来22年ぶり10人目。 横浜大洋の開幕投手・欠端光則から6回裏の第3打席に初安打となる二塁打を放ち
高卒新人野手の開幕戦安打は1960年の矢ノ浦国満(近鉄)以来28年ぶり、史上3人目の快挙であった。 その後、4番・落合博満の適時打で生還して初得点も記録した (同試合におけるドラゴンズ唯一の得点で、エース・小松辰雄が2失点で敗戦投手)。 当時の応援歌は光GENJIの「ガラスの十代」の替え歌。 立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセでは皆無 パで2006年の炭谷銀仁朗(西武)・2011年の駿太(オリックス)・2013年の大谷翔平(日本ハム)の3名。 同年のオールスターゲームには遊撃手部門でファン投票選出され 全セの指揮を執る王監督から3試合連続で出場機会を与えられた。 西宮球場での第1戦では8回表代打で津野浩からオールスターゲーム初打席初安打 ナゴヤ球場での第2戦では2番・遊撃手で先発出場したが第1打席は先発阿波野秀幸に外野邪飛に仕留められ 第2・3打席も渡辺久信の前に凡退し3打数無安打に終わった。 東京ドームでの第3戦3回表2死まで打者8人をパーフェクトに抑えていた先発西崎幸広に三振を喫した。 レギュラーシーズン110試合出場し打率.223(6月には2割9分あったが、夏バテによって大幅に落ち込んだという)ながら 22盗塁、21犠打を記録し、中日のリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズには全試合先発出場した。 守備・走塁技術を高く評価されて新人王を受賞。また、高卒新人としては初のゴールデングラブ賞を受賞した。 しかしその一方、日本シリーズ終了時には右肩痛が悪化 まともにボールが投げられないほどの痛みになっていたという。 日本赤十字社のイメージキャラクターに就任。 110試合 打率.223 本塁打4 打点18 盗塁22
1989年 前述した前年春に痛めた右肩の故障の影響で開幕を二軍で迎え 6月に1度は一軍昇格するも2週間で降格させられる。 結局この年はシーズン30試合出場にとどまる。 星野の意向により一度は手術が決定し8月に渡米するが 診察したフランク・ジョーブは手術を見送り、「肩のまわりの筋肉を鍛えれば治る」とアドバイスした。 この年の故障によって体調の管理に気をつけるようになったと後年語っている。 終盤に一軍復帰し、9月20日の巨人戦に先発出場。この試合の第1打席でセンター前ヒットを放つなど その後閉幕までの19試合の間に打率3割の好成績を残し、翌年の完全復帰をアピールした。 30試合 打率.235 本塁打2 打点8 盗塁3 1990年 前年の故障が尾を引くも痛み止めを飲み続けながら試合に出続け、初めて遊撃手のポジションで128試合に出場。 復活を遂げ主にリードオフマンとして活躍し、シーズン打率.303、155安打を残す。 この年の終盤、打率が3割を切るピンチに直面したがそのまま出場し続け 結果的に3割を維持したままシーズンを終えた。 このことが大きな自信になったと本人は語っている。 この年のオフに結婚し長女が誕生した。 128試合 打率.303 本塁打11 打点45 盗塁18 1991年 藤田元司の抜擢でオールスターゲームに自身初の監督推薦で出場。 東京ドームでの第1戦に1番・二塁で先発出場したが、初回表先頭打者として野茂英雄に三振を喫した。 この年、星野監督が辞任する。 131試合 打率.290 本塁打10 打点45 盗塁10 1992年 自らこの年就任した高木守道監督に懇願し、遊撃手を種田仁らに譲り、二塁に転向される。 この年のキャンプで右の前腕を痛め、そのまま4月4日の開幕戦に出場。 この日は第1打席で二塁打を打ち、7回裏にはレフト席にホームランを放った。 しかし試合後、右腕をアイシングしたところ必要以上に腕を氷水に漬けてしまい 結果人差し指が凍傷となってしまった。 このことをトレーナーは把握していたが、立浪の意志で監督やコーチには伝えられなかった。 結局、その後も凍傷で動かなくなった人差し指を抱えながらも様々な記録を残していくこととなる。 故障で序盤は欠場したが、2年ぶりの打率3割を記録。 しかし、チームは立浪入団後初の最下位に終わる。 98試合 打率.301 本塁打5 打点42 盗塁8 1993年 6月11日からシーズン守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。 シーズン守備率.997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。 この年から専用応援歌が変更される。 128試合 打率.286 本塁打16 打点50 盗塁6 1994年 6月11日の対巨人戦で松井秀喜の放った強烈な打球を弾いて失策を記録。 無失策記録は712回で止まったが監督の高木守道及びコーチの徳武定祐が現役時代に記録した数字を上回るものだった (この記録は後に関本健太郎に破られる)。 10.8決戦では8回裏先頭打者として桑田真澄から内野安打を打った際に一塁にヘッドスライディングし左肩を脱臼して負傷退場した。 また、この脱臼の後遺症として左肩は痛いままだと本人は引退後に語っている。 129試合 打率.274 本塁打10 打点53 盗塁12 1995年 2度目のゴールデングラブ賞を受賞。 この年から3年連続で受賞する。 126試合 打率.301 本塁打11 打点53 盗塁10 1996年 この年に星野監督が復帰。 この年のオールスターゲームに二塁手部門でファン投票選出。 この年は自己最高の.323の打率を残すが チームメイトのアロンゾ・パウエルや辻発彦との打率争いに敗れ(リーグ3位) 首位打者獲得はならなかった。 この年、自身初のベストナインに選出される。 10月6日中日の逆転優勝の可能性が残るナゴヤ球場最後の公式戦では 9回裏2死から川口和久に三振を喫し最後の打者となり巨人の優勝が決まった(メークドラマ)。 130試合 打率.323 本塁打10 打点62 盗塁2
1997年 開幕戦の対横浜戦で盛田幸妃から初回先頭打者本塁打を放ち ナゴヤドーム初の公式戦で同球場第1号本塁打となる。 8月22日の対阪神戦ではサイクル安打を達成。 しかしシーズンを通しては不調に終わり、チームも最下位に転落。 この年に作られた応援歌は成績不振のためかわずか1年で廃止されたが 1999年にPL学園の後輩である福留孝介の応援歌として復活 歌詞変更を経て福留が退団した2007年まで使用された。 133試合 打率.269 本塁打14 打点55 盗塁8 1998年 久慈照嘉と李鍾範の加入で左翼手に転向され
外野守備コーチに就任間もない二宮至の特訓を受ける。 広島市民球場での開幕戦(相手の先発は42歳大野豊)に3番・左翼手で出場し4打数無安打。 星野監督の故郷倉敷マスカットスタジアムでの阪神戦で 川尻哲郎・(前年までの同僚)矢野輝弘のバッテリーにノーヒットノーランを喫した際もフルイニング出場。 しかし、同年6月13日の横浜戦では戸叶尚からナゴヤドーム初の満塁本塁打を放った。 また、ナゴヤドームで第1戦開催の同年のオールスターゲームに松井、新人の高橋由伸と共に外野手部門でファン投票選出された。 外野手部門での選出であったが、ナゴヤドームで開催の第1戦は全セの指揮官のヤクルト監督野村克也に9番・二塁手で先発起用された。 結果として、この年は李鍾範の故障があり左翼手だけでなく二塁手を務めることも多かった。 134試合 打率.272 本塁打8 打点43 盗塁6 1999年 中日ドラゴンズの選手会長に就任。 李鍾範と入れ替わるように内野手に復帰し開幕戦で「5番・二塁手」で先発出場 6回裏にネイサン・ミンチーから勝利打点となるタイムリー二塁打を放ち、プロ野球タイの開幕11連勝を飾った。 打率は2割6分台だったもののチーム最多の勝利打点を記録し、チームの優勝に貢献した。 王が率いるダイエーとの日本シリーズ第1戦では13奪三振で完封勝利の工藤公康から4打数2安打 第2戦では若田部健一から先制適時打を放ったが日本一はならなかった。 123試合 打率.266 本塁打4 打点53 盗塁3 2000年 3月31日ヤクルトとの開幕戦で「2番二塁手」として先発も相手の開幕投手石井一久に三振を喫した。 5月6日、ナゴヤドームでの対横浜戦で、立浪自身の喫した判定への不満から星野が球審の橘高淳に抗議して胸を突き 同僚の大西崇之が肋骨を骨折させたことでファンから大西・星野と共に刑事告発されるが、起訴猶予処分となっている。 126試合 打率.303 本塁打9 打点58 盗塁5 2001年 シーズン終盤より三塁手としての出場が多くなる。 12月より日本プロ野球選手会理事長に就任。 労働組合日本プロ野球選手会副会長も兼任し 選手の地位向上や野球の普及活動にも力を注ぐ。 この年、長らく立浪とともに戦ってきた星野が中日監督を辞任。 139試合 打率.292 本塁打9 打点65 盗塁6 2002年 シーズン当初は5番打者を任されたが、レオ・ゴメスの帰国に伴い、7月7日から4番打者を任される。 この年はチーム最多、自己最高の92打点を記録。 5月21日には五十嵐亮太から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放った。 137試合 打率.302 本塁打16 打点92 盗塁4
2003年 7月5日の対巨人戦(東京ドーム)で、PL学園の先輩である清原和博の前で猛打賞を記録し通算2000本安打を達成。 同試合後に日本プロ野球名球会入会記者会見。 同年、三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞 通算では日本プロ野球史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)で受賞となった。 直後のオールスターゲームにも監督推薦で選出され 大阪ドームでの第1戦8回先頭打者で原辰徳に代打で起用され、斉藤和巳から二塁打を放った。 オフには1999年から務めた球団選手会長を井端弘和に譲る。 135試合 打率.280 本塁打13 打点80 盗塁2 2004年 この年は5月と6月に月間MVPを獲得し、チームを5年ぶりのリーグ優勝に導き2度目のベストナインに選出される。 この年は古田敦也とともに一時首位打者争いを繰り広げるが、夏場に成績が下降し、またもやタイトルを逃すこととなった。 同年の日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)7回裏、松坂大輔から同点弾となる3ラン本塁打を放ち勝利に貢献したが 同シリーズは3勝4敗で惜敗。 プロ野球再編問題で球界一の実力者で巨人オーナー退任前後の渡辺恒雄の「たかが選手が・・・」の発言を選手会副会長として批判した。 134試合 打率.308 本塁打5 打点70 盗塁5 2005年 開幕戦は3番・三塁手で先発出場、0-0で迎えた9回裏先頭で横浜先発の三浦大輔から三塁打で出塁 アレックス・オチョアのサヨナラ満塁本塁打で生還。 5月19日に札幌ドームでの日本ハムとの交流戦で金村曉から日本プロ野球新記録の通算450本二塁打を放つ。 6月4日、球団新記録の2275本安打。この年は序盤は三塁手だけでなく 本人の志願もあり左翼手として起用されることも多かった。 138試合 打率.253 本塁打9 打点56 盗塁2
2006年 4月7日の対巨人戦で上原浩治からサヨナラ満塁本塁打を放つなど2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが 後半戦から森野将彦に正三塁手の座を奪われてからは先発出場から外れるようになった。 優勝決定の翌々日10月12日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で 片岡篤史の引退試合では志願して先発出場を果たし、試合後に片岡の胴上げに参加した。 同月16日の広島でのレギュラーシーズン最終戦では2006年の日本シリーズに備え4番右翼手で先発出場 この試合以降は後述する2009年9月30日まで守備に就いてのスタメン出場は無かった。 113試合 打率.263 本塁打1 打点31 盗塁3 2007年 中村紀洋の加入もあり出場機会が減ったものの、代打としての年間最多出場記録樹立。 日本シリーズ制覇やアジアシリーズ制覇に貢献。 同年オフより打撃コーチを兼任。 101試合 打率.275 本塁打2 打点31 盗塁0 2008年 コーチ兼任で臨んだシーズンだったが、開幕から不振でプロ入り後の最低の成績でシーズンを終えた。 オフの12月5日、契約更改の終了後に会見を行い 「来年が最後のつもりでやります。1年悔いのないように。思い切って、最後の力を振り絞ってやります」と2009年限りでの現役引退を示唆した。 86試合 打率.205 本塁打1 打点10 盗塁0
2009年
前年オフに引退を示唆したことで開幕前から注目を集めた。
40歳という年齢もあり守備に就くことは後述する本拠地最終戦までなかったが、代打でチームに貢献した。
4月24日の対巨人戦では豊田清から同点本塁打を放ちチームの勝利に貢献。入団以来22シーズン連続で本塁打を放った。
8月1日に日本プロ野球史上7人目の通算1万打席を達成。
シーズン終盤に正式に引退を表明し、9月30日の本拠地最終戦後に引退セレモニーを行った。
試合には6番・一塁手で同年シーズン初のスタメン出場。2-6で敗れたが、4打数3安打の猛打賞で自らの引退を飾った。
また、3安打目は二塁打で、自らの持つ二塁打の日本記録を487に伸ばした。
試合後のセレモニーでは桑田真澄、清原和博、片岡篤史らから花束が贈られた。
その後も10月4日の対阪神最終戦(甲子園)や
10月11日のヤクルトとのレギュラーシーズン最終戦(神宮)で代打出場して凡退した。
4日は桧山進次郎から、11日は宮本慎也から、花束が贈呈された。
レギュラーシーズンでの現役最終打席は9回表2死無走者の場面で押本健彦から二飛を打った。
また10月24日の東京ドームでのクライマックスシリーズ第4戦9回表、7番・藤井淳志の代打として出場が最終打席となり
マーク・クルーンに左飛に仕留められた。
ドラゴンズファンの間で「背番号3を永久欠番に」という運動が沸き起こり
署名活動も行われたが、2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。
しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった。
77試合 打率.318 本塁打1 打点17 盗塁0
22年間通算
2586試合 打率.285 本塁打171 打点1037 盗塁135
2022年
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